2011 年 3 月 14 日

 今回の大震災の被害に遭われた方に心よりお見舞い申し上げます。


 少年時代、新聞配りをしていた私にとって忘れられない光景がある。

 現在は梱包技術の発達により、雨や雪などの悪天候には新聞が一部ずつナイロンで包まれ、雨に濡れる事なく届けられる。当時はそういった便利なものは勿論なかった。雨や雪が降った時は工夫を凝らし、届けたものだ。昔から朝が苦手だった私に、遅刻をしても宅配先の主人達は慈愛に満ちた笑顔で許してくれた。懐かしくも美しい思い出の一つである。 
 忘れられない朝は雪の降る寒い朝だった。
 家の前の新聞大位の大きさの段ボールに毎朝届けられる新聞の束は大きな帯で包まれており、帯の一番上には茶色のわら半紙の様な紙が被せられており、新札の新聞を守っていた。帯を解いた瞬間のその一面が未だに忘れられない。

 『兵庫県南部地方大地震発生』

 後に「阪神・淡路大震災」と呼ばれる忌まわしい大震災である。「忘れられない」と書いたものの記憶とは曖昧なものである。阪神淡路大震災が発生したのは、1995年(平成7年)1月17日火曜日午前5時46分とされている。つまりは18日の新聞の見出しを見て大震災を知ったという事になる。そして世間が大騒ぎしたであろう大地震を知らずに丸一日間過ごした事になる。大きな誤差がある。 
 この誤差については説明が出来ない。
 ただ、説明出来る範囲で説明をしたい。今回の大震災と決定的に違うのは週末か否かにあると思う。阪神淡路大震災は平日の早朝に起こった為、子供達に配慮がなされた可能性が高い。地震も早朝だった為に東日本地方では殆ど感じなかった。多くの子供達が普段と変わらず学校へ行き、家に帰る。ニュースを楽しみにする稀有な子供がいれば話は別だが、知ることなく眠り一日を終える。その為、大地震を朝刊で知る。
 しかし、今回は違う。テレビでは連日ニュースをひっきりなしに放送し、当たり前の話だが子供達が楽しみにしていたテレビ番組も変更される。余震を恐れ外出出来ずに多くの子供達が不安と窮屈な週末を過ごしたと思われ、この恐ろしい経験が記憶として心に深く、色濃く刻まれた事と思う。
 日本にいた全ての日本人の当たり前の日常が一瞬にして一変し、多くの大人は仕事を休業し、休業にされ土日を家族と共に不安な休日を過ごした事と思う。
 1995年、山間で育ち、兵庫県へ訪れた事のなかった私にとって「兵庫県」は日本ではなく、異国の地に近かった。
 現在は違う。
 何度か訪れる機会を頂き、兵庫の街は訪れた記憶が曖昧だが思い出せる程の街になった。

 東北地方の記憶は色濃く思い出せる。
 この世のものとは思えない程の美しかった「浄土ヶ浜」。
 海沿いをランニングをしている私達に『ガンバレ~』と励ましてくれた優しい漁港の方達。
 美味しかった魚介類。
 仲間と遊んだプール施設。
 そんな大切な思い出の場所が流されていく様を為す術なく、ただただ呆然とテレビ越しに眺めていた。
 その後、仙台にいる友人達とは未だ連絡が取れず、岩手にいる後輩とも未だ連絡が取れていない。そんな思いを日本中がしている事と思う。
 日本人は阪神淡路大震災の経験によって、天災が招く人災があること。被災地や被災者への配慮など多くの知識を得た。その知識も経験も亡くなった多くの命の上に成り立っている事を忘れてはならない。
 今回の大震災で亡くなった方達は決して戻っては来ない。
 残された者として出来る事は数多くある。
 心無い人間の愚かな行為を見抜く為に絶えず学習し、被災地を思い、被災地とレベルは違えど皆が被災者なのだから、隣人に優しく、思いやりの心ありきで生活を送る。そして、この経験を心に刻み後世まで伝え続ける事こそが亡くなった方達へのせめてもの餞(はなむけ)だと私は信じている。

 若輩者の筆者ではあるが真の意味での人の優しさを心から信じている。


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