今後「生ける伝説」と讃えても差し支えないであろう澤穂希がワールドカップを掲げた瞬間、宇津木妙子氏を思い出した。
女子ソフトボールという競技を真の意味で世に広め、オリンピックという舞台において監督として銀、銅メダルを獲得し、育てた選手達が北京の地で遂に金メダル獲得の偉業を成し遂げる。
女子ソフトボールというスポーツの普及、そして育ての親と言い換えても過言ではないだろう。
自身は金メダル獲得には到らなかったが金メダルを獲得した“かつて”の教え子達が獲得した金メダルを首から下げたシーンは感慨深く、そして美しいシーンでもあった。
何処の川沿いにでも存在する何の変哲もない河川敷のグラウンドで練習を行い、地域住民から偏見の目で見られ『女が野球してどうするの?』と侮辱とも取れる言葉を浴びせられながらもオリンピックという大舞台を目指し、メダル獲得まで至った経緯を知った時の感動は未だ色褪せる事はない。
男尊女卑という言葉は平成の世になり、色濃くは無くなったものの未だ蔓延る昨今。
たとえ、男子が南アフリカというアウェイの地で迎えたワールドカップにおいてベスト16に残っても、たとえアジア王者に輝いたとしても、女子にスポットライトが当たる事はなかった。
大会前、サッカー協会関係者の中でも『男子が目覚しい活躍をしているのだから女子も続いて欲しい。』と漏らしたのは極々一部に過ぎなかった。
会社に置き換えるならば、収益を見込めない日陰部署に映る。
ワールドカップ期間中、漫画の主人公宛然の活躍でチームを救い続けた澤穂希が決勝戦、延長戦後半終了間際にネットを揺らした同点弾は今大会のハイライトと言えるだろう。
諦めを知らない勝ち上がりで決勝戦に辿り着いたなでしこジャパンにとって宮間あやの同点弾は象徴であり、なでしこジャパンそのものに映った。
アメリカの猛攻を耐えに耐えた前半戦、後半に入り先制点を許すが美しさの欠片も感じさせないが、諦める事を知らない魂の先に辿り着いた同点弾は栄光への階段に一歩、足を踏み入れた瞬間でもあった。
この同点弾こそが息を吹き返す絶好の機会だった。
澤は女子サッカーを振り返る時『結果が全て』と常々口にしてきた。
競技は同じでも男子とは全く異なる環境でサッカーという競技を勤しんできた。
オリンピックやワールドカップという大舞台でしかスポットライトを浴びる事しか許されない環境。
同じ様に欧州で活躍する選手がいても男子と全く異なる扱いを受け、「アジアの星パク・チソン」と隣国韓国のスター選手を讃えても女子サッカーの欧州CL制覇を果たした選手にはスポットライトは全く当たらなかった。
これを男尊女卑と呼ばずして何と呼ぶか。
延長戦に入り、勝ち越しを許す。
劣悪な環境に光を、女子だから、といった偏見のという名の重い扉を「女子サッカー界環境改善」を唱える澤自身が自らの力でこじ開けた。
そんなゴールだった。
PK戦に入り、海堀あゆみのスーパーセーブに沸き、熊谷紗希がネットを揺らした瞬間、その時は訪れた。
サッカーだけで生活出来ない選手がいる中、男子以上の偉業を成し遂げたなでしこジャパンである事に異論を挟む者は皆無であろう。
なでしこ達の栄冠は時代を変えるかも知れない。
これからは男子が負けようものなら「女子は強いのに」といった見方がサッカーに興味を抱かない方も当然抱く事だろう。この見方こそがサッカーに新たな見識を与え、男子選手達がより一層の鍛錬を促す。
そして、彼女達は知っている。気を緩めた先に待つ地獄を知っている。
世界一になり、芸能プロダクションと契約する選手がいたり、過去に出版された自伝も増版が決定した。今は浮かれに浮かれても構わない。過酷な努力の末の御褒美は必要である。
ロンドン五輪にソフトボール競技は行われないがサッカー競技はある。
8月21日に強化試合が予定されており、9月1日からロンドンオリンピック アジア最終予選が始まる。
人気は暫く持続しそうだ。
これからもなでしこ達の綱渡りは続くだろう。
しかし、なでしこ達は知っている。結果を残さなければ訪れる地獄を。
首から金メダルを下げる宇津木妙子の表情を私は生涯忘れないだろう。
北京での歓喜からソフトボールは世に浸透したのか、と問い、浸透した、と答える者がいるとするなら強がり以外の何者でもないだろう。
北京オリンピック後、女子ソフトボール金メダル獲得の立役者、上野由岐子の登板試合に多くのファンが駆け付けた。現在は当時程の熱は存在しない。
日本人は熱しやすく冷めやすい体質なのは言うまでもない。
宇津木妙子は言う。
『選手によく言うんです。自分の為にやりな。それがチームの為になったり、ソフトボール界の為になって、国の為になるんだよって』
ソフトボールが成し遂げられなかった人気という名の文化をしっかり築いて欲しい。それこそが女性が行う全てのスポーツの地位向上にもなる、と私は考えている。
なでしこ達にはこの歓喜のままドーバー海峡を越えて欲しい。