悪因悪果

2011 年 5 月 10 日

 両足を使った小刻みなタッチ、相手の裏を取る動き。
 世界中から注目されている「メッシ二世」と呼ばれる少年が日本にいて、YouTubeなどを通じて観る事が出来る。

 サッカーにおける技術とは相手がいない状況では簡単でも相手がいる場合は全くの別物である。
 大人でも困難な技術であるマルセイユルーレットをいとも簡単にこなし、相手がある1対1での局面で完璧にこなし相手を抜き去る10歳にも満たない少年の映像を観て、驚きを隠せないでいる。
 きっと少年の親もしくはコーチが教えた賜物に思う。
 状況に応じ、完璧なタイミングで相手をかわす少年に技術を教えた側は此の上無い喜びを噛み締めているであろう。

 視点を変えてみたい。
 
 やられた側はどう感じたか。
 同世代であろう相手に何も出来ずに綺麗に抜き去られる屈辱。
 全盛期にも至らなかったディエゴ・マラドーナと対峙した多くの“元”日本代表選手達が「宇宙人」「気付いたら抜かれていた」と述べる。
 マラドーナに出会った当時、大人に近付きつつあった“元”日本代表選手達はワールドカップという舞台、つまりは世界を知らずして現役生活を終えてしまう。
 才能があった“元”日本代表選手達がもっと早くに幼少期にマラドーナに出会っていれば、真似も出来たし、日本の未来も大きく変わった事と私は考えている。その位、彼等には才能があった。
 その後、世界を席巻したマラドーナを真似て左耳にピアスをしたり、履いていたPUMA社のスパイク「パラメヒコ」を多くの少年達が履いた。パラメヒコはカンガルーレザーを施し抜群のフィット感が人気を呼び、多くのプレイヤーに支持され、進化を続け人気も実績も当時のまま現在に至る。
 しかし、日本の少年達がピアスやスパイクが支持してもプレースタイルを真の意味で真似ようとはしなかった。
 ドリブルが巧い選手がマラドーナと形容される時代は確かにあった。背が低く技術全般の能力が高ければ和製マラドーナと呼ばれた時代は確かにあった。
 しかし、マラドーナは利き足である左足を試合中8:2もしくは9:1の割合で使っていた。
 このプレーを日本でやったら先ず、レギュラーにはなれない。
 日本では左右両足が同様に使えて初めて巧い選手と呼ばれ、両利きの選手など存在しない為、ボールの蹴り方から始まり左右に付いている筋肉のバランスの鍛錬、体幹の強化、何から初めなければならないか分からない。
 幼少期からの鍛錬、トッププレイヤーの技術をテレビで見せ、プレーを真似をさせる事から始め、どの様に教えこませるか全国の日本人コーチは試行錯誤を続けている。
 「メッシ二世」に抜き去られた少年達も今度は抜かれない様に試行錯誤を重ね、未来の糧になる事を願っている。
 味わった悔しさが人を強くし、成長させると私は願っている。

 Jリーグが誕生し技術は飛躍的に伸びた。
 サポーターの応援スタイルも素晴らしくなった。
 旗を振ったり、ホーンを吹くしかなかった応援も各チームに応援歌があったり、現在ではバラエティ色豊かである。
 心の成長はどうか。
 現在、世界では少し落ち着いたとはいえ未だ人種差別が根強く残り、根絶までに世界中が躍起している。
 しかし、人種差別の根は深く根絶までには未だ至ってはいない。
 同じ事が「また」日本で起きてしまった。
 主に外国人選手、有色人種選手、国と国との負の遺産を背負わされた選手にそして相手チームのエースにプレッシャーをかける。
 エトーも、そしてジダンもその餌食になった。
 未だ、日本は世界に技術の面で追いついてない。選手はその事実を真摯に捉え、日々の練習に汗と血を流している。
 協会も強化の為に世界中を駆け回っている。風評被害の風、電力問題、自粛、期待など四面楚歌の中の懸命に働いている。

 応援をしている者達が世界から掻い摘んだつまらない知識と知恵を身につけ、新たな問題を起こして何になる。
 相手を傷つけ、薄汚く、姑息で何も生み出さない愚者の行為を真似て応援をする事が果たして日本サッカーの未来なのだろうか。
 大人になって真似の善し悪しも分からない訳があるまい。
 応援しているチームが勝てばそれで良いのか。
 そういった愚者が同胞をも差別するのであろう。

 そんな真似をして情けないとは思いはしないか。


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