忘却

2009 年 6 月 20 日

『あれをスポーツマンと言えるのかね・・・?』
私が十代の終盤を迎えた1997年11月、仕事で接客していたオーストラリア人が憤慨し、ただその試合の話をした私に愚痴った。
30代を迎えた現在で鮮明に覚えている。

日本中が悲願のワールドカップを決め、ジョホールバルの歓喜で揺れている頃、同じ11月『メルボルンの悲劇』という悲劇を知ってる方は何人いるだろう。
アウェーゴールルールにより彼等は負けた。
オーストラリアがワールドカップに出場したのは1974年大会まで遡らなければならない。ヨハン・クライフの大会と現在でも語り告がれている『あの』大会だ。サッカーの転機と呼ばれ続ける大会。
彼等が弱かったのか?
それは違う。彼等は辛酸を舐め続けて来た。
ワールドカップには出場枠があり、例えるなら子供の頃に誰でも遊んだ事のある椅子取りゲーム。そこには必ずルールが有り、何人たりとも『その』ルールを破ってはならない。
ルールぎりぎり椅子の近くを歩く者。いつ音楽が停止しても椅子に向かって最短距離を描けている者。脚力に自信がある者。競り合いになっても負けないフィジカルを持つ者。
しかし、、それは一人掛けの椅子が用意されているならではの話。彼等は違った。椅子が半分しかなかったのだ。
しかも、その半分の椅子を賭けて南米予選5位と競わなくてはならない。アルゼンチン、ウルグアイ、ワールドカップを制した事のある世界的な強豪と試合をやらなければならない。そして彼等は負け続けた。
そんな中、迎えた1997年は違った。当時のFIFAのルールでは前回ワールドカップのディフェンディングチャンピオンは地区予選は免除されており、アジア第4位とワールドカップ行きを争う事となった。
奇しくも1974年と同じ条件。
11月16日アウェー、テヘランで行なわれた第1戦1−1のドローで終え、ホームで迎える第2戦を圧倒的有利で迎える。
11月22日メルボリン、地力に勝るオーストラリアが序盤から試合を支配する。前半32分、後半3分とゴールし試合を決める。後は試合終了のホイッスルを待つだけだった。
そんな中、最初の悲劇が起きる。後半20分あろうことかフィールドに男が乱入。勿論試合は中断、試合の流れは一気に動く。半分まで開きかけたワールドカップへの扉は再び閉じようとしていた。
恐れている事が起きる。後半26分にゴールを許す。傾いたは流れを修正出来ず、後半30分に同点。
それからはイランGKアベドザデの執拗な時間稼ぎ。ジョホールバルで先発フル出場した『あの』GKだ。ゴールキックになれば足が攣ったと騒ぎ立て、競り合いになればクリアした後に倒れこみ、担架を要請。
このままだとアウェーゴールルールにより負けてしまう。焦れば、焦るほどイランの思うつぼ。
試合終了のホイッスル。
オーストラリアは試合に引き分け、勝負に負けた。
彼等は予選8試合戦い、6勝2分0敗、1試合も負けることなくワールドカップ行きの道はまたしても閉ざされた。

彼等は一大決心をする。

2005年オセアニアサッカー連盟を脱退。同年、アジアサッカー連盟に加入。FIFAはこれを受け2006年1月1日をもって承認。
2010年南アフリカワールドカップはアジア枠から出る事になった彼等は易々と最終予選へ進出。
最終予選8試合戦い、6勝2分0敗、1試合も負けることなくワールドカップ行きを決めた。


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