4年後へ

2010 年 6 月 30 日

1996年、現在から14年前、Jリーグが初の1シーズン制を試みる。
その年、優勝を収めたのは鹿島アントラーズであった。
第1次黄金期を迎えようとしていた鹿島アントラーズのボランチを務め、チームに抜群の安定感をもたらしていたのはジョルジ・ジ・アモリン・カンポスことジョルジーニョであった。

では、ジョルジーニョのポジションは?
と聞かれれば、私は迷わず「サイドバック」と答える。
ドイツの名門、バイエルン・ミュンヘンでも右サイドバックを務め、レギュラーとして活躍し、1994年ワールドカップアメリカ大会でもブラジル代表としてブラジル優勝に大きく貢献している。
当時のバイエルンは現在と異なり、外国人枠が存在し、ベンチを含め3人までしか登録が許されていなかった。
その中でのレギュラーなのだから価値がある。
しかし、日本に来て右サイドバックを務めたのは、ほんの数時間しか務めていない。
では何故、日本ではボランチのポジションだったのか。
理由は当時の監督ジョアン・カルロス氏のみが知ること。

2010年6月29日。
日本、パラグアイ両国にとって初のベスト8をかけて激突した。

パラグアイがPK戦の末、ベスト8に駒を進めた。
何が足りなかったのか。
運だけで言うのなら、贔屓目に見たとしても日本代表の方が運に見放されていた。
前半の松井のクロスバーを叩いたシュートは明らかに運がなかった。
技術的な部分で言うのなら、差は合ったものの長年、苦手南米に対し互角以上の闘いを演じた。
でも勝てなかった。

では、勝つ為には。

本職のポジションでなくとも、活躍した本田圭佑。
日本代表は長年、得点力不足が嘆かれてきた。
そんな嘆きも聞こえなくなる位に本田圭佑は躍動した。

今大会フォワード登録の選手が挙げた得点は岡崎慎司の1点。
それも本田圭佑の完璧な御膳立てからの1点。

パラグアイ戦では日本人フォワードの最たる例、原因とも言えるプレーが出た。
延長後半10分のプレーに凝縮していた気がしてならない。
玉田圭司の突破。岡崎慎司の頑張りから溢れたボールを再び玉田圭司の元へ。
その溢れたボールをあろうことか、中にパスをしてしまう。
折り返したボールも何処を見て、何を描いて出したのか解りかねるレベルのプレー。
解説をされていた元日本代表金田喜稔氏も思わず『おおい!』と怒鳴っていた。

チームメイトが死闘を繰り広げ、その死闘に途中交代で参加した玉田圭司は交代前、何を考え、あの死闘に参加したのであろう。
交代した大久保嘉人なら、今大会の大久保嘉人なら、凡そ5メートルに満たない距離なら迷わずシュートを打ったと私は考える。
この試合のスケープゴートを玉田圭司に押し付けるつもりは毛頭無い。
ただ私は世界で闘えるフォワードには途中交代の際『みんな、俺の為に今までご苦労さん!』位のふてぶてしさ、図々しさが絶対に必要だと考えている。

本職のサイドバックでなくボランチを務め、鹿島アントラーズに第1次黄金時代の中心選手だったジョルジーニョ。
本職のトップ下でなくワントップを務め、日本代表に大会ベスト16に大きく貢献した本田圭佑。
本職、ポジション、フォーメーションに関わらず目の前の相手に負けない気持ち。
闘う気持ち。
それこそが両者が持ち合わせたメンタリティーに思う。

大会を通し、失点させない為に奮起したディフェンス陣。現に4試合でPKを含む2失点のみ。
得点する為に目の前のワンチャンスにシュートすら打たなかったフォワード。

最後の最後で試合を決められるのはその闘う気持ちだという事を私自身、改めて教えて頂いたワールドカップであった。

2010年6月29日パラグアイ戦。
技術では甲乙つけ難く、運が左右すると云われるPK戦によって日本代表はワールドカップ南アフリカ大会を去る。

本田圭佑が不慣れなポジションで躍動したワールドカップだった。
では、本田圭佑が一番生きるポジションでプレー出来たのならどんなワールドカップになったのだろうか。

ジョルジーニョと本田圭佑。
この二人には決定的な差がある。
ジョルジーニョが鹿島アントラーズに入団した時は31歳であった。
本田圭佑は現在24歳だという事。

4年後のワールドカップで中田英寿氏がいた頃の黄金時代を迎えるか否か。
今から私は期待に胸を膨らませている。


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