系譜

2012 年 9 月 9 日

 先日、選手生活の全てをユヴェントスFCという北イタリアのクラブチームに捧げた選手が、そのすべてに別れを告げ、オーストラリアのシドニーFCへの入団が決まった。


 1本のビデオテープがある。
 

 どのチームにとって、無敗優勝なるものは偉業なのは言うまでもない。選手、クラブ、ファンにとって、それはまさに夢でもある。
 11-12シーズン、イタリア・セリエAでユヴェントスがリーグ戦を無敗で優勝した。当時のACミランのように“ゾーンプレス”という革命的な戦術があったわけではない。バレージ、コスタクルタ、タソッティ、マルディーニといったDF陣がそっくりそのままイタリア代表でもなく、「オランダトリオ」という後世まで語り継がれている伝説的な3人がチームを牽引していたわけでもないチームがセリエAを制した。

 91-92  ACミラン  34試合 22勝 12分け 74得点 21失点
 11-12  ユヴェントス 38試合 23勝 15分け 68得点 20失点

 38試合で20失点も、34試合で74得点も脅威的なきろくであり、甲乙つけがたい両者である。

 昨季のユヴェントスは、ミシェル・プラティニも、ロベルト・バッジョといったレジェンドプレーヤーですら成しえなかった金字塔を、みごと打ち立ててみせた。プラティニは初の世界一の称号をクラブに授けた。バッジョはプラティニが去ってから、無縁だった国際タイトルを再びチームにもたらす活躍をみせた。

 大なり小なりどのクラブにもクラブ最多得点記録がある。プラティニもバッジョもクラブに多くのタイトルをもたらしたが、60年代にジャンピエロ・ボニペルティが築いた179得点という記録を、さいごまで塗り替えることはできなかった。
 94-95年、当時会長を務めていたクラブ最多得点記録保持者ジャンピエロに発掘され、みいだされた若き才能がバッジョにかわりチームを牽引することとなる。

 1冊の本がある。

 日本のみで行われていた頃のTOYOTA CUP 96 の大会パンフレットである。
 会長が惚れこみチームに招き入れ、サッカー選手としては細く、荒れた鳥の巣のようなボサボサ頭だが、丹精な顔立ちをもったその青年の名はアレッサンドロ・デル・ピエロ。類まれな技術、秘めたる力を見抜いていた同氏であったが、まさか自身が45年間、保持していたチーム最多得点を更新されてしまうとは夢にも思わなかっただろう。

 怪我がちだったバッジョと入れかわるように、デル・ピエロは躍動する。国内制覇はもちろん、欧州も制覇。85年にプラティニが成しとげた以来の、世界一を争うTOYOTA CUPでは決勝点となるゴールを決め、クラブ世界一いう栄誉をクラブに再びもたらした。

 96-97、97-98年、リーグ二連覇を果たすが、CL(チャンピオンズリーグ)では、2年連続で決勝戦まですすむが敗退している。補足だが、3年連続で決勝戦進出という偉業は、ヨハン・クライフやフランツ・ベッケンバウアーが活躍した70年代まで遡(さかのぼ)らなけれならない。

 98-99年、悲劇がおそう。
 左膝十字靭帯断裂という大怪我を負ってしまう。チームにとって、すっかり大きな歯車となっていたデル・ピエロを失ったチームは、勢いをうしない、スクデット(セリエA優勝チームに贈られるカップ、エンブレムの愛称)も他チームに渡してしまう歳月をおくる。選手生活すら危ぶまれた大怪我から、みごと復帰を果たすが完全復活までには至らない。
 この怪我によりかつてのスピードを失うが、二回りほど大きくなった体躯(たいく)をファンに披露する。のちに、多くの識者が『このときの怪我が、デル・ピエロの選手生命をのばした』と語り、その予想をおおきく上回る歳月を21世紀となった現在でもおくっている。

 ジネディーヌ・ジダン、フィリッポ・インザーギといった、最高の相棒たちに囲まれた時期もあった。スクデットまであと一歩のシーズンを送り、相棒たちが各国のメガクラブに引き抜かれる中、すでにチームの「顔」になっていたデル・ピエロは最後まで動じなかった。
 スクデットから遠ざかっていた時期もあったが、チームにパヴェル・ネドヴェド、ダヴィド・トレゼゲ、といった新たな相棒がやって来るとスクデット奪還に成功している。

 02-03年には7年ぶりにCL決勝戦まで駒をすすめるが、PK戦の末にミランに惜敗する。リーグ連覇には成功するが翌年の03-04はスクデットを逃す。デル・ピエロが入団してからこれまで、どんな刻がながれても、ユヴェントスというチームの攻撃の中心には、つねに背番号「10」がいて、白と黒のユニフォームを身にまとうチームはデル・ピエロそのものだった。04-05年、05-06年リーグ連覇を果たすが、チームに悲劇が待ち受ける。

 「カルチョーポリ」である。

 審判への買収・脅迫行為が発覚。クラブは04–05および05–06シーズンのスクデット剥奪に加え、史上初のセリエB降格処分を受ける。
 多くの主力が各国のビッククラブに引き抜かれる中、デル・ピエロ、ジャンルイジ・ブッフォン、ネドヴェド、トレゼゲ、マウロ・カモラネージといった主力はチームに残留。セリエBという環境は、日本のファンにはあまり認知されてないが、劣悪な環境そのものだとイタリア人は口を揃える。

 『セリエBの試合はアメフトだよ』とも言う。アメリカンフットボールさながらのタックルを平然と受け、一度でもセリエAを経験したクラブなら、いささか環境は整っているが、万年セリエBで過ごすクラブのホームスタジアムのピッチは劣悪そのものだそうだ。
 事実、現在セリエBに甘んじているが、セリエAを経験しているブレシアのホームスタジアムに足を踏み入れたが、芝の状態はいいが、スタンドにあるアクリルの壁はところどころ割れていて、古さを隠せてはいなかった。

 歴史的ではあるが、近代的とはいえない、その環境でデル・ピエロはセリエB得点王に輝き、チームをあるべき場所、セリエAの舞台にチームを引き上げる。復帰をはたした初年度をリーグ2位で終え、CL出場権を獲得する。しかし、おおくが欧州での舞台をしっているはずのチームが、あの頃のようには勝てなくなっていた。

 決して、古き良き時代をすごした主力が、歳を重ねたからではない。

 チームはすっかり、かつての「誇り」や「羅針盤」を失ってしまった。「カルチョーポリ」を境にすべてが変わってしまった。かつて、欧州中から「チーム作りのプロ」と賞賛された敏腕幹部たちは資格を剥奪された者、永久追放をされた者にわけられた。つまりは、外見こそ同じだが、中身といえばまったくの別物になっていた。

 イタリアから、遠くはなれた極東の地にいるファンたちですら、首をかしげるような選手補強なのだから、勝てるはずもなかった。
 代表例として、過去にアルジェリア移民のフランス人選手を安価で買い取り、チームに招いたことがあった。当初はイタリアの水にあわず、ティフォージから罵声すらあびた選手に、監督は匙(さじ)を投げたが、幹部の指示により辛抱つよく、使い続けることを命じた。
 その選手がチームのやり方にフィットしだすと、チームにおおくのものをもたらす。のちに21世紀最高の選手とよばれるまでになる、ジネディーヌ・ジダンその人である。
 彼らは、そういう目を持っていた。
 それからの幹部たちは、選手を育てることを忘れ、獲得する選手の特性も歪(いびつ)で、クラブの方針は全くといっていいほど見えなかった。

 そもそもユヴェントスがイタリアで、確固たる地位を築けたのには理由がある。自動車王アニェッリ家が、チームを買収した1920年代まで時代を溯らなければならない。潤沢な資金と惜しみない愛情を注がれたチームは、それに答えた。現在までの優勝回数をみてもそれは明らかで、ACミラン、インテルミラノが共にリーグ優勝18回の中、ユヴェントスは28回である。

 2010年、子孫である現オーナー、アンドレアが新会長に就任する。欧州ではもちろん、イタリアでも勝てなくなったチームに落胆した会長は、デル・ピエロ以前の主将、アントニオ・コンテを招聘(しょうへい)する。「闘将」とよばれたかつての主将は、現役引退後、監督になっていた。セリエBにいたチームを、セリエAに押し上げただけの功績しかなかった監督に、当初、だれもがその手腕をうたがった。

 イタリア初のクラブ所有のスタジアムで迎えた開幕戦を、完璧な試合運びで4-1と大勝する。そのことによりコンテは、ティフォージの信頼を完全に勝ち取る。思い返せば、デル・ピエロが頭角をあらわした時の監督であり、のちにイタリア代表を24年ぶりに世界一に導いたマルチェロ・リッピの当初と類似する点がおおい。

 昨季、デル・ピエロは開幕戦こそ先発出場を果たすが、その後は交代での出場が目立つようになる。
 べつの見方をすれば、近年のACミラン黄金期をささえ、移籍金0でユヴェントスにやってきたMFアンドレア・ピルロが、試合を創るようになったチームに、デル・ピエロの創造性は必要とされなかったのかもしれない。

 コンテ自身も現役時代、ピルロにおおくの類似点をもつポルトガル人MFパウロ・ソウザとプレーした経験がそうさせたのか、ピルロを重宝し、信じ続けた。事実、入団したその年にスクデット獲得に貢献、翌年には欧州制覇も成し遂げている。現在のクラウディオ・マルキージオの「黒子」のような働きをコンテがおこなっていた。
 コンテ自身も現役時代は、走れない選手を嫌い、手をたたき鼓舞する姿、守備に走らなかったチームメイトを怒鳴りつける姿を、いまでも鮮明に覚えている。なにより、観ている者が気の毒になるほど走るチーム。かつてのユヴェントスを彷彿とさせるチームを、コンテは見事復活させた。技術ではなく、魂でプレーするチームがそこにはあった。

 「船頭多くして、舟沈む」という諺(ことわざ)が、昨季のユヴェントスにはよく当てはまる。

 チームに2人のゲームメーカーはいらなかった。
 ユヴェントスに入団してから、怪我以外で、昨季ほどベンチを温める日などなかった。それでもチームのバンディエラ(シンボル)らしく、その状況に記者に、たとえ煽(あお)られても文句一ついわなかった。

 2011年10月、全世界に衝撃がはしる。

 アンドレア・アニエッリ会長から、『デル・ピエロとって今季がラストイヤーになる』と発表したのだ。イタリア代表の盟友はもちろん、ご意見番で知られる辛口の識者からも『シーズンが始まったばかりのこの時期に・・』といった、おおくの非難を受けたチームのフロントだったが、意思は固かった。『アレックス(デル・ピエロの愛称)が言い出したことだ』ともコメントしている。当のデル・ピエロも『この時期じゃなくとも・・』といったコメントを残すだけに留めるあたりも、このイタリア人の人間的な厚さを示している。

 日本に置き換えたら、選手晩年の長嶋茂雄選手を読売巨人軍から、シーズンが始まった5月に本人の意思とはべつに、記者会見をひらき、そう言い渡すようなものである。晩年であろうと長嶋茂雄は長嶋茂雄である。
 プラティニのようにユヴェントスで現役を終えるのだと、信じて疑わなかったファンは困惑した。バンディエラにはバンディエラなりの最後がある。ライバルチームであるACミランのフランコ・バレージもパオロ・マルディーニもそれを経験した。

 シーズンの前半は輝きをうしなっていたが、後半には時折、かつての存在感をみせる。ハイライトは第32節ホームでのラツィオ戦にある。ユヴェントスは前半30分に先制するが、試合のほとんどを制圧していたはずの相手に、前半ロスタイム、同点弾を許してしまう。その後あった好機を生かせないでいると、後半28分デル・ピエロが投入される。引き分けでも、ACミランと首位が入れかわる状況下で後半37分、その時はやってくる。

 ゴール前でFKを得ると、直接たたきこんだのだ。響き渡る『アレッサンドロ!』という掛け声に、ティフォージは『デル・ピエーロ』と叫び、スタジアムにこの日いちばんの熱狂をもたらし、その姿はまさに千両役者そのものだった。その決勝ゴールがもたらしたものはあまりにも大きかった。その後、無敗を維持したチームは連勝を重ね、9年ぶりとなるスクデットを獲得することになる。

 そんな中、ファンを喜ばせるニュースもあった。

 35節、敵地でむかえたノヴァーラ戦、現UEFA(欧州サッカー連盟)会長であり、チームのレジェンドであるプラティニと、ノヴァーラ出身で、デル・ピエロを見出したジャンピエロ・ボニペルティ名誉会長はすでに83歳になっており、すっかり白髪をたくわえた老紳士になりながらも、そろって観戦に訪れていた。プラティニは、記者からデル・ピエロの去就を聞かれると『ユヴェントスでしょ?』と笑いながら即答したのだ。

 それでも決まらない去就に、ファンは一縷(いちる)の望みを思うのだった。

 最終節にむかえるにつれ、イタリアを支え、セリエAを支えたせんしゅたちの去就があきらかになっていく。最終節をまえにイタリアの有力紙「ガゼッタ・デロ・スポルト」は、去りゆく選手たちのユニフォームを円状にならべ、『さようなら、ありがとう!』という見出しで一面を飾っていた。そこには、デル・ピエロのユニフォームも掲載されていた。

 迎えた最終節のアトランタ戦、コンテは『デル・ピエロを先発させる』と公言し、その約束を守った。デル・ピエロの最後の勇姿を目に焼き付けようとティフォージが詰めかけ、超満員となったスタジアムはバンディエラの最後となる得点をも目にする。前半28分、彼らしく、最後をかざるに相応しいテクニカルなゴールだった。
 後半13分、交代が告げられるとスタンディングオベーションでファンはバンディエラを見送る。涙を浮かべる者、それを流す者、奇声をあげる者、スタジアムにいた全ての者が拍手をし、ベンチに退くまでそれは続いた。

 ベンチ手前では、この日なぜか革張りのゆったり座れるベンチに入らず、ピッチに粗末なパイプ椅子のようなものに置き、ジャンルイジ・ブッフォンはそこに座っていた。セリエBに降格した憂き目にあっても、主力のおおくがメガクラブに引き抜かれる中、誘いを受けず、チームを離れることがなかった世界屈指のGKと抱擁(ほうよう)するシーンは言葉ではたとえられない情景だった。

 ここから、おそらくサッカー史上、“最初で最後”の光景を、おおくの者が目にする。ベンチにいたデル・ピエロが試合中にも関わらず、ピッチのライン際をゆっくり歩きだしたのだ。その姿を見たファンからは、マフラーやタオルをピッチに投げ込む。拾いあつめては歩むバンディエラの光景に心打たれた方も多かったことだろう。
 また、そのことを彼も『あの美しい光景を生涯わすれない』と、のちにコメントしている。

 日本時間2012年5月21日、日本では「金環日食」一色になったその早朝、イタリアではコッパ・イタリア決勝戦が行われた。
 デル・ピエロは先発するが、最終節のアトランタと、ディエゴ・マラドーナ以来の優勝をめざすナポリとでは、勢いも、チームのレベルもおおきく違っていた。どんなハイプレッシャーの中でも、常にみせていた「違い」を最後までみせることが出来なかった。圧倒される場面がおおく、後半早々にナポリに先制点をゆるすと、デル・ピエロはベンチに退く。ローマで行われていたこの試合は、スタンドのおおくをナポリファンで占め、最終節のような拍手はなかった。

 皮肉なことではあるが、デル・ピエロが交代するとユヴェントスは息を吹き返す。
 好機をおおく作るが、実らず、前がかりになったチームは追加点をゆるし、試合は決した。デル・ピエロにとってユヴェントスでの最後の試合は有終の美をかざることなく、終わりを告げた。

 それでもファンは、移籍先が決まってないことから、「ひょっとしたら・・」という淡い期待を捨ててはいなかった。
 ファンの気持ちをかんがえた場合、みな、デル・ピエロ残留を心のそこから願った。しかし、それは一方的なものだったのかもしれない。当人からすれば、衰えを隠せなくとも、毎試合出場したかったに違いなかった。事実、のちにそれを口にしている。

 2012年6月30日、その時はおとずれる。
 自身が運営するホームページで“正式”に退団を告げたのだった。

 ACミランのバレージやマルディーニが背負った背番号「6」と「3」が永久欠番になったように、そうする案もあったが、デル・ピエロは『子どもたちの憧れを奪いとるべきではない』とコメントし、彼自身も少年時代にあこがれたユヴェントスの背番号「10」を、『全世界のこどもたちに目指して欲しい』と語った。

 私のイタリア人の友人の父親は、生粋のユベンティーノだった。会話のほとんどは友人を介して、過去のチームと現在のチーム、あの時はどうだったか、など、他愛のないさまざまな話を延々とした。おどろいたのは、『好きな選手は?』という問いに『ミシェル』と即答した。いわゆる、“食い気味”でそう答えた。
 おもわず笑ってしまった。
 「ミシェル」とはプラティニのことであり、バロンドール3年連続受賞、セリエA 3年連続得点王、チームに初の欧州一、世界一に導いたその人である。十二分に理解できる。プラティニのような輝かしい経歴はなくとも、きっと何十年かしたら、世界中にいるユベンティーノが、『デル・ピエロ』と答えるにちがいない。

 今後、ユヴェントスというチームにデル・ピエロ以上の才能の出現はあったとしても、彼ほどの人間性が現れるのだろうか。
 北イタリアのヴィノーヴォにある練習場では、選手たちのサインや写真を求め、全世界からファンが詰めかける。次期キャプテンであろう選手は練習が終わると、きまって一番最初に風のように消える。その彼がいない試合でキャプテンマークを巻く選手も、おなじように愛車である黒のフェラーリから降りることなく、笑顔で手をふるだけだ。

 デル・ピエロの人間性を物語る、特筆すべきエピソードがある。
 2011年3月11日、日本で未曾有の東日本大震災が起こると日本語で「友」と書かれたTシャツを作り、売り上げ金の4,000万円全額を日本に寄付したのだ。2012年7月21日、東日本大震災のチャリティーマッチが茨城県カシマサッカースタジアムで開催されると、それに参加し、利き足とは逆足の左足で、難易度の高いミドルシュートを決め、千両役者っぷりを日本のファンの前でも披露してくれたのだった。

 すでに始まっている12-13シーズン。ユヴェントスの開幕戦は、準優勝で終えたコッパ・イタリア決勝戦での表彰式のさい、デル・ピエロの後ろを歩き、ベンチに退いたバンディエラからキャプテンマークを受け継いだマルキージオが、デル・ピエロのように右腕ではなく、左腕を巻き、2-0という完勝におおきく貢献した。

 19年間も在籍した選手が去ったチームは、ひょっとしたら、レベルが落ちないのかもしれない。たとえそうだとしても、モチベーションはどうだろう。バンディエラが去るということは、そのチームの魂が抜けてしまうことも意味する。そういった選手は、ピッチの中だけの存在では決してなく、ベンチや練習にも少なくない影響をあたえる。
 だが、サイクルの終焉はいつか訪れる。

 ヴィノーヴォにあるユヴェントスの練習場では、凍えるような寒さでも、汗がにじむ炎天下のなかでも、練習があるその日、ファンは決して帰ろうとはしない。そう、彼がやって来るからだ。その最後に必ずやって来る。そしてその時は必ずやってくる。



 その時は、大きな、奇声にちかい“温かい声”で迎えられる。その声援はこれから、この時はもう一生やってこない。分かり切ったことだが、選手がクラブを去るということは、そういうことを意味する。
 ユヴェントスでの出場試合数は、紳士でしられ、イタリアを代表する名DFガエターノ・シレアの552試合をおおきく上回る705試合に出場し、クラブ最多得点は前途のジャンピエロ・ボニペルティの179点もまたおおきく上回る290点を記録した。

 サイクルの終焉はいつか訪れる。

 その終わらせ方に小さくない“しこり”を残したとしても、およそ20年、白と黒のたてじまのユニフォームを身にまとった希代のイタリア人、アレッサンドロ・デル・ピエロの今後の活躍をここに願う。


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