宿主

2012 年 4 月 11 日

 美しいゴールは場所、時間帯、技術といった局面に左右され、「好きな選手が決めれば」といった個性も当然でてくる。
 個人的にはゴールポストの上、つまりはクロスバーを叩きながらゴールラインを越える得点が美しく映る。技術もさることながら、運も必要となってくる。主審、そしてラインを見守る副審によっては幻とされてしまう場合が殊(こと)の外おおい。

 ゆえに、物議をよぶ。

 1966年W杯イングランド大会決勝戦のスコアは延長戦の末にイングランドが4-2のスコアで西ドイツを退け、サッカーの母国に初のジュール・リメ杯をもたらした。
 だが、一方で『イングランドはウェンブリースタジアムを一度も出ずにW杯を手にした』という皮肉を言う者もいた。おおくの「幻のゴール」を語るうえで代名詞的な得点が生まれた大会でもあった。

 90分を2-2で終え、延長戦に突入した死闘はクロスバーを叩き、ゴールラインを越えたか否かのシュートは得点と認められた。延長前半11分の出来事であり、認められなければ94年W杯アメリカ大会よりも以前にPK戦で雌雄を決する決勝戦になっていた可能性もありえた。

 しかし2010年W杯南アフリカ大会決勝トーナメント1回戦、同じような展開から幻のゴールが生まれる。1966年とは逆にイングランドが放ったシュートはゴールラインを確かに割ったが認められず、4-1のスコアで西ドイツから国名が変わったドイツが勝利し、準々決勝に駒をすすめた。この試合も2-1と、ドイツリードで進むなかでの幻のゴールであった。決まっていれば同点で前半を終え、後半に突き放されることはなかったのかもしれない。

 66年大会はイングランドが笑い、西ドイツが泣いた。しかし、44年後には逆の展開が待っていた。違っているのは決勝戦か否か、という事くらいだろう。この感情はチームはもちろん、その時を生きた自国ファンでなければ解り得ないものである。

 映像が鮮明になった今日では2010年のものは誰の目にも明らかだが、1966年のものは断定しにくい。そもそも約50M先の出来事を人間の目で追うのには無理があるのではないか。
 機械の目の導入が叫ばれるが、導入されれば試合を中断してのビデオ検証もとうぜんある。試合の流れをさえぎる事から『サッカーを殺す』と唱える者も存在する。
 『誤審について討論するのもサッカーの楽しみでもある』と人は言うが、好きなチームが誤審で負けたのなら美談に過ぎないだろう。

 欧州ではタイトルレースが佳境をむかえている。特にイタリア、スペインは勝ち点差1ポイントで首位攻防戦をくり広げており、今月21日に行われる首位の座をかけたエル・クラシコを今から心待ちにしている日本のファンも多いことだろう。

 イタリア・セリエAではユベントスとACミランが首位を争っているわけだが、直接対決は2月に終えている。その試合で2つの得点が見逃された事実が未だに物議をよんでいる。



 首位決戦の際、サリー・ムンタリの得点が取り消されたシーンを痛烈に批判したガゼッタ・デッロ・スポルトの記事だが、あきらかに悪意がある。
 ミラノの本拠地を置く新聞社がミラノのチームであるACミランに肩入れするのは当然ではあるが、これもサッカーの一部と言っていいだろう。悔しさや屈辱をバネに選手、そしてチームは切磋琢磨し明日の勝利を追い求めている。

 誤審が寄生虫ならば、宿主は紛れもなくサッカーそのものにある。

 がん細胞は全ての人間に存在するそうで、遺伝はもちろんだが、悪性に変わるか良性に変わるかはその人次第の場合が多いそうだ。
 観る側が、審判に、チームに対し、聖人君子のような振るまいを望むのならば、ある種で不摂生というものだ。

 不摂生を重ねたさきに細胞は悪性に変わるのだと聞く。
 宿主を守るのも観る側の務めの一つでなければ、サッカーとはあまりに残酷なスポーツになってしまう事を忘れてはならない。


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