盟友

2011 年 8 月 6 日

 メディアに心を閉ざし、常に攻撃的な態度で質疑応答をこなし、圧倒的な存在感でピッチに君臨した選手がいた。

 後に日本代表の背番号10を託される事になる中村俊輔選手ですら日本代表初招集の際、『雲の上の存在』と形容した選手が中田英寿氏である。

 20歳前後の青年がテレビで騒がれ、プレーも超一流で、ワールドカップ初出場に導いたと言っても過言ではない選手と接する場合、憧れを通り越して恐怖に近かったに違いない。
 その時に出た言葉『ヒデさんは雲の上の存在だった』である。
 
 メディアに異端児扱いされ、プレーのレベルが違い過ぎた中田氏に名波浩氏ですら『試合中はヒデについて行くのに必死でした』と後に語っている。年上から年下まで畏敬の念を抱いていたが一人だけ、全く違う接し方をする選手がいた。
 松田直樹氏である。
 酒の席になれば、雲の上の存在に一気飲みをさせたり、その場にプールがあれば突き落としたり、少し風変りなファッションセンスへも口を出したと聞く。
 お互いを10代の頃から知り、元来、人懐っこい人柄の中田氏とリーダーシップが取れ兄貴分的な性格の松田氏が気が合うのも当然の成り行きだろう。そんな松田氏がいたからこそ、『2002日韓ワールドカップの日本代表は一体感があった・・』と多くの識者に云わしめ、その存在を惜しんだのはそれから4年後のドイツワールドカップ後であった。

 2011年8月4日、松田直樹氏は帰らぬ人となった。享年34歳。

 ジーコ監督が率いていた日本代表がDFを3枚でワールドカップ本戦に挑む、と耳にした中田氏は『マツを呼ぼう』と何度も声を挙げたのは有名な話である。2005年ジーコ監督の方針に腹を立て、代表合宿を無断で一人ボイコットした選手が確かな謝罪もなしに再び呼び戻す事は遂には叶うことがなかった。
 そして待っていたのは2006年ドイツワールドカップでの崩壊である。

 8月2日、練習中に倒れてから松田氏を慕う多くの現役選手、元選手が駆け付けた。代表候補選手が北海道から、元チームメイトが横浜から、延べ30人近く、そして全国から友人達が駆け付けた。多くのファンも集い、気持ちは察するが病院側に多大な迷惑をかけた事をサッカーを愛する者なら反省せねばならない。

 帰らぬ人となった故人を偲ぶ、エピソードが多々ある中で最も感動したエピソードの中に『私の一番の思い出は、95年ワールドユースだろうか。「日本サッカーの歴史を変える」を合言葉に、新しいページを彼らが描き始めた。カリファのガラガラのスタンドで、他の選手たちと離れ松田と中田がふたりだけで試合を見ていた姿は、今もよく覚えている。あれから16年。あまりにも早すぎる。合掌。』がある。10代らしい夢や目標を語り合っただろうし当時、見果てぬ夢だったワールドカップの話も必然的にしたであろう。
 2002年、語り合っただろうワールドカップのピッチで躍動した二人。

 『俺はもうマツには伝えたから。わざわざ他の人に言うことじゃない』サッカー選手という職業から離れ、柔らかく質疑応答に答える様になった昨今の中田氏からは考え難いコメントは現役時代をただただ感じさせる。彼もまた悲しんでいる。

 松田氏の死は世を大きく変えていくだろう。今後、AEDがグラウンドには常備されるだろうしチームドクターの必須アイテムになるだろう、この事は救える命の多くを助ける事を意味する。
 多くの人に惜しまれながら松田直樹氏はこの世を去る。残酷な言い方を許して貰えるならAEDの重要さを松田氏の死によって世に知らしめた。

 日本にはまだまだ自己主張の強いDFは数える程しかいない。決して褒められた行為ではないが、監督の起用法を巡り代表合宿をボイコットしてしまう程の気持ちの強い選手だからこそJFLの選手達に日本のトップでやり抜くメンタリティを教え、JFLでしか表現出来ないサッカーを表現して欲しかった。JFLがサッカー人のセーフティネットではなく、JFLでしか表現出来ない特別な場所という環境を松田氏なら表現出来た気がしてならない。
 そして引退後のサッカー解説、技術指導、若手育成に個人的に興味を抱いていた。

 2006年ドイツに松田がいれば、と現在でも惜しんでいる一ファンとして心からの御冥福をお祈り致します。


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