遺伝

2011 年 7 月 27 日

 少年サッカー場に足を運び、親御さんと談話を交わすと盛んに投げ掛けられる質問がある。

 『うちの子、巧くなりますかね・・』という問い。

 子を持ったことのない私でも分かる話だが、我が子の行く末を心配しない親など皆無であり、誰もが選手として大成を望み、大会を勝ち抜き全国大会へ、そしてプロへ、強いて言うなら日本代表に登り詰めて欲しい筈なのは言うまでもない。
 サッカーというスポーツに限らず、様々なスポーツを勤しむ子に当て嵌まる親の切なる希望に思う。
 しかし、親の希望とは裏腹に勤しんで来た事以外に興味を抱くのが子供である。テレビであったり、ゲームであったり、子供の目線に立たないと解り得ない沢山の興味がこの世には存在する。

 しかし、特殊な環境に育った子供は違う。

 親が“元”選手だと話が違ってくる。周囲は期待し「~選手の息子さん」という呼び名が付いて回る。
 そのプレッシャーに打ち勝ち、親を超える存在になった者は数える程しか存在しない。
 ヨハン・クライフの息子、ジョルディもジーコの息子達も遂には親を超えられなかった。
 野球界を見ると、より顕著に映る。野球界の象徴でもある長嶋茂雄氏の息子も野村克也氏の息子も落合博満氏の息子も然りである。その点、高木豊氏の息子達は時潮か潮流かサッカーを選び、才能を開花させた。
 先日、次男にあたるMF高木善朗がオランダのユトレヒトに旅立った。
 『早く海外挑戦したかった』と明かす一方で『高木豊を知らない場所でサッカーがしたかった』とも漏らしている。
 日本にとって野球は根強く、高木豊氏を知らないサッカーの指導者は少なくない。指導者にとって「スーパーカートリオ」から連想する身体能力に期待せずにはいられないのも事実だろう。
 確かに大成した多くのアスリート達の親族の中にプロになれなくとも全国大会出場や国体出場をはじめ、云わばトップアスリートが存在する。

 日本が出場を辞退したコパ・アメリカが先日、ウルグアイがアルゼンチンを抜いて新記録となる15回目の優勝という結果で大会を終えた。
 昨年、南アフリカで行われたワールドカップでの旋風は決してフロックではなかった事が伺える。ナショナルチームにおいて堅守速攻という言葉がウルグアイ程似合うチームもいないだろう。
 危険な場面で身体を投げ出し、虚を突くロングシュート、こぼれを狙う嗅覚、ドリブルでボールを的確に運ぶ能力、そして何よりカウンター攻撃は迫力があった。優勝候補のブラジル、アルゼンチンが相次いで躓く中、勝者になった所以は一つではないが、一つに継続性が挙げられる。
 ブラジル、アルゼンチンと異なるのはワールドカップ以降、監督交代をしていない事が先ず挙げられる。選手を知り、選手も監督のやり方を知っている。クラブチームに戻れば、エース級の選手が集うナショナルチームでは選手の人心掌握術が必要不可欠な能力だと言っていい。
 南アフリカワールドカップで10番を背負い、キャプテンとしてチームをまとめ、大会MVPを獲得したディエゴ・フォルランの活躍なくしてウルグアイの40年ぶりのベスト4進出は果たせなかっただろう。
 コパ・アメリカでは思った様な活躍は出来なかったが、決勝戦で2ゴールを決め大会制覇に大きく貢献。大会通算2得点ではあったがチームが欲しい時に得点を挙げる事が出来る能力こそエースの質だと私は考えている。
 サッカーファンにとっては承知の事実ではあるが、フォルラン家は祖父から続く3代続けてのコパ・アメリカ制覇を達成した。
 フォルラン家にとって、大会制覇が三代続くとは確かな遺伝子があるのは間違いない。しかし、遺伝子だけでは結果は望めない。
 ディエゴの祖父に確かな才能があったとしても息子のパブロに全ての才能は受け継がれない、血は結婚により薄まる。その中でパブロも結果を残す。そのパブロの背中を見て育ったディエゴは当然の如く、父親を目指す。
 フォルラン家の才能という名の血は薄まったとしてもディエゴは祖父も父親をも超えた。ワールドカップ、大会MVPに贈られるゴールデンボール賞が1978年から始まったのだが、ウルグアイ人で獲得したのは後にも先にもディエゴ・フォルラン唯一人である。
 ディエゴは幼少期はテニスの腕が一流だった、と聞く。プロのサッカー選手を志すキッカケを作ったのは12歳の時に姉が自動車事故に巻き込まれて下半身不随になった時に志したと聞く。多額の医療費が必要とされ、家族は貧困を極めた。
 ディエゴがプロのサッカー選手を目指した理由として『プロのサッカー選手が一番稼げる』そんな子供地味たキッカケが姉を、家族を幸せにしたのは言うまでもないだろう。

 シティ・オブ・ゴッドという映画があり、ブラジルの最下層を描いた映画がある。底辺の環境から抜け出す術をサッカーで、という映画ではないが南米全てに当て嵌まるであろう貧困の様が確かに描かれている。
 その環境から抜け出す術をサッカーに見出し、確かな才能を持った原石達が篩いにかけられ磨かれている。
 自分の身は自分で、と考える少年と、ただサッカーが巧くなりたいと考える少年が世界にはいる。
 どちらがサッカー選手として、人間として伸びるかは言うまでもない。貧困から抜け出し、プロのサッカー選手になり、ある種の成功を納めたとしても堕落していく選手を多くみるが、そういった選手達の言動、振る舞いを見ていると求めた先のビジョンが曖昧に映る。
 ディエゴ・フォルランは良き遺伝子を授かり、最善の努力、家族思いの優しい人格者、そして確かな得点力、全てのサッカー選手の鏡の様に私には映る。

 そして良き指導者に巡り会う運も、また必然である。

 良い選手になる為の要素は星の数程ある。しかし、良い選手になる前に良い人格者を目指さなければ授かった才能もある程度で止まってしまう。
 ディエゴ・フォルランを見ているとそんな事を思ってしまう。


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