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勢力

2015 年 1 月 6 日

 第91回東京箱根間往復大学駅伝競走は往路優勝を果たしていた青山学院大学は、復路1位を一度も譲らず初の総合優勝に輝いた。

 91回を数える歴史ある大会において史上18校目で往路優勝した同校だが、総合優勝となるとさらに少なく15校しかなく16番目となる快挙は、伝統校のみが許された名誉という側面をみることができる。

 伝統校の名誉はそのまま知名度にも繋がり、その中にいる部員もその立ち位置を当然意識し、そして慣れていく。今大会で悲願の箱根駅伝を制した青山学院大学だが、これまでのタイトルは2012年の出雲駅伝の優勝のみだった。

 現4年生たちが入学したとき、自分たちの代で箱根駅伝優勝は難しい、と思ったそうだ。ところが1区を走った久保田和真たち現3年生が入学してくると「もしかしたら」と思えるようになった。

 実際、2012年の優勝は「もしかしたら」が最も確信に近づいた瞬間だっただろう。それ以前の青山学院大学は10位以内に与えられるシード権を確保できず、予選会も通過できずにいた。

 その頃を知る部員は「どの大会に出ても疎外感があった」と話す。伝統校たちが視線を合わせて火花を散らし合うなか、自分たちは振り向きもされず、挨拶をしても無視され、そのたびに向上心が生まれ、そういう非常に辛い経験を同校の先人たちは体験している。

 必死に有名選手に喰らいつき、記録会が終わった暗い夜道、肩を叩きながら帰ったそうだ。箱根駅伝に出場することすら叶わなかった先人たちが歯を食いしばり、強豪校に挑み、敗れた時に流した涙が初優勝の礎(いしずえ)になっていることを忘れてはならないだろう。

 ようやくシード権を獲得できるまで力をつけ始めたチームに原晋(はらすすむ)監督は、悲願の初優勝に向け大きなテコ入れをする。

 たしかな能力がありながら、それを出していない選手たちを多くの部員が居並ぶ中、名指しで叱った。前途の久保田はその1人である。昨年の春に靭帯の手術をし、一度は自分の陸上生命は終わったと感じていた久保田は箱根に照準を合わせた。

 走った1区の終盤を振り返ると駒澤大学、青山学院大学、東洋大学、明治大学、とでデッドヒートを繰り返す。この4校の順位が最終順位まで直結したことを考えると、怪我明けの選手がこの場面で挫(くじ)けなかっただけでも賞賛に値するものだろう。

 箱根駅伝とは違い、王者とて出場が約束されていない高校サッカー選手権では前回覇者・富山第一高校が地区予選で敗退した。大塚一郎監督は試合後のロッカールームで「泣くくらいならもっとやれ」と、いささか手厳しい言葉を選手たちに投げかけた。

 初優勝したのちに待ち受ける、見えない重圧に打ち勝てるかもまた見所の一つだろう。


颯爽

2015 年 1 月 3 日

 第91回東京箱根間往復大学駅伝競走往路において、初優勝を成し遂げた青山学院大学の快挙は、駅伝ファンでなくとも新年早々おどろかされたはずだ。

 今大会の予想は優勝候補筆頭に駒澤大学、連覇を目指す東洋大学、次いで明治大学などが挙げられており、青山学院大学は「チャンスはある」といった評価だった。

 レースが始まると1区の久保田和真が2位で襷(たすき)を繋ぐ。2区の一色恭志は順位を一つ下げるものの3位で3区の渡邉利典につなぐ。3区も3位をキープし、4区の田村和希が順位を一つ上げ、2位で5区神野大地に繋ぐ。

 5区に襷が渡った当初、1位の駒澤大学とは46秒の差あったが10.45km付近で追い抜き、2012年に東洋大学の柏原竜二が打ち立てていた1時間16分39秒という大記録をコースが多少変更されたとしても24秒縮めての優勝は見事というほかないだろう。

 箱根駅伝は第二次世界大戦によって中断されていた過去がある。しかし昭和18年、戦時中の日本にありながら学生の熱意に押され「関東学徒鍛錬競走大会」という大会名で復活する。その大会に初出場したのが青山学院大学である。

 初参加した大会では、往路優勝した慶應義塾大学から遅れること1時間34分13秒遅れて最下位でゴールした青山学院大学は、その大会から72年という途方もない年月を経て、初の栄冠を勝ち獲った。

 また、史上18校目となる往路優勝を成し遂げた青山学院大学だが、91回を数える伝統ある大会において、17校しか優勝を成し遂げていない歴史をみても、この偉業はより説得力を増す功績だろう。

 勝てば、注目が集まる。

 たとえば、女子サッカーも2011年ドイツで行われたW杯を初制覇して以来、注目を集めるようになった。元旦の恒例行事となっていた男子の天皇杯全日本サッカー選手権大会は、今月開催を迎えるアジア杯開催などの都合もあり、昨年の12月13日に行われていたため、今年は元旦の風景を女子が創った。

 視聴率、注目度、観客動員数はまだまだ男子に及ばないにしても、女子サッカーの今日の認知度は彼女たちが自力で勝ち獲った功績である。今年6月にカナダで開催されるW杯でも飛躍を期待したい。

 日の目を見なかった対象が勝利によって注目を集めるのはよくある話である。

 青山学院大学は創部96年目というほぼ1世紀の苦心をかけて往路を制したが、総合優勝は未だ“悲願”のままである。だが、昨今の潮流をみるとその可能性はかぎりなく高いが、64年ぶり往路2位になった明治大学の動向もまた興味深い。

 暗く不透明なニュースが多い昨今の日本社会だが、大学の名誉と伝統を背負い、箱根路を颯爽(さっそう)と駆ける大学生たちから今年は例年より学ぶべきものが多いのではないだろうか。


終焉

2013 年 12 月 31 日

 今季限りで現役引退を決めた選手たちがいる。マリアノ・リベラもその一人だ。

 世界一有名なプロ野球球団であるニューヨーク・ヤンキース一筋を貫いた投手は、歴代1位となる652セーブという前人未到の大記録を打ちたて、MLB(米メジャーリーグ)最後の背番号42を背負った投手は今季限りでの現役引退を表明した。

 言わずと知れた「カットボール」の生みの親は、試合を締める“クローザー”としてマウンドに上がり、投球のほぼ全てをこの魔球に任せ、「一種類の球種しか投げないピッチャー」だとバッターが分かっていたとしても落差のあるボールを攻略できた者は少なく、たとえ当たってもバットをへし折ってきた。

 偉大なクローザーの現役引退と示し合わせたように、「42 ~世界を変えた男~」という映画が公開された。黒人初のメジャーリーガー、ジャッキー・ロビンソンの差別や偏見、脅迫と戦った壮絶なプロ野球人生の映画化には世界中で賞賛の声を集めた。

 現在でもMLBの新人王にあたるルーキー・オブ・ザ・イヤーには「ジャッキー・ロビンソン賞」という別名が付けられている。また、メジャーデビュー50年目にあたる1997年4月15日は彼の背負った「42」が全球団共通の永久欠番となった。

 のちに「ジャッキー・ロビンソン・デー」と制定され、希望する選手がその背番号で試合に出場し、近年ではMLB全ての選手が年に一度「42」を着用するその日になっている。

 2013年、平和を愛し、差別と戦った南アフリカ共和国の“巨人”が壮絶な生涯を終えた。

 若くして反アパルトヘイト運動に身を投じ、国家反逆罪で終身刑の判決を受けるが世界中の“声”に折れた当時の大統領が遂に釈放を決意する。27年間に及ぶ獄中生活の後に大統領になる。全民族融和を掲げ、スポーツの分野においても1995年ラグビーW杯と2010年サッカーW杯の招致を熱望し、成功させたネルソン・マンデラその人である。

 享年95歳。

 釈放から5年後、自国開催のラグビーW杯では練習場や試合会場に姿を現しチームを鼓舞し続けた。そもそもこの国ではラグビーこそアパルトヘイトの象徴だった。白人は自国を黒人は敵チームを応援した。

 それでもマンデラはスポーツの持つ“力”を信じ、ラグビーこそ自身が掲げた全民族融和への近道だと信じた。不可能とされた初優勝を可能にしたのは、一つの国家となった国民の応援と決して無関係ではない。

 また『平和を求めるならたとえ敵でも協力すべきだ、そうすれば敵でも仲間になる』という言葉を残した。囚人から大統領になっても聡明さを失わず、閣僚人事ではアパルトヘイト推進派を選出している。

 2013年、現役引退を決めた多くのアスリートがいて、世界を変えた一人の英雄がこの世を去った。


懐疑

2013 年 2 月 15 日

 「オリンピックは、勝つことではなく参加することにこそ意義がある」という、誰もが知る名言がある。

 1896年、ギリシャのアテネにて産声をあげた近代オリンピック第1回は、陸上競技、競泳競技、体操、ウエイトリフティング、レスリング、フェンシング、射撃、自転車、テニスといった9つの競技が男子だけでおこなわれている。

 日本のお家芸の一つであるレスリングがオリンピック競技から除外される、というニュースはその道に生きる者にとって、寝耳に水どころの話ではない。

 「日本が強くなると・・」といった声が聞こえ、「テコンドーとレスリング、世界でどちらが普及しているか」という懐疑論までもちだされている。

 昨夏30回目をむかえたロンドンオリンピックでは、競技数が26にも膨れ上がった現状をふまえると、いかに世界に認知された大会だということが分かる。同時に大金がうごくビジネスの場にもなった。

 過去にオリンピック競技から除外されたなかに野球とソフトボールがある。それらが除外される理由は分からないでもない。たとえば、イングランドのように野球が普及していない国にとっては、開催が決まればスタジアム建設から始めなければならない。そのことを考慮するとレスリングとは違い、理解できない話でもない。

 世界中が注目するオリンピックは、マイナースポーツの競技人口をふやせる絶好の舞台でもある。実際、見向きもされなかった女子ソフトボールが世界一になると新たに実業団ができ、普及した背景がある。そして、競技者人生の集大成にする場をオリンピックという舞台にえらぶ選手も少なくない。

 競技の除外とはスポーツの普及や、選手感情の一切を度外視した決断であることを忘れてはならない。

 近代オリンピックとは、古代オリンピックに感銘をうけたピエール・ド・クーベルタン男爵により提唱され、同氏の「オリンピックは、勝つことではなく参加することにこそ意義がある」といった言葉は名言となり、4年に1度、競技を勤しむ者たちとその国民にさまざまな情緒をもたらす大会になった。

 「霊長類最強」と謳(うた)われ、グレコローマン130キロ級で五輪3連覇を果たしたロシア人のアレクサンドル・カレリン氏は『陰謀論の支持者ではないが、IOC(国際オリンピック委員会)理事の立場を見れば明らか』と背景には政治的な意図があると推測する。

 今回のIOCから出された声明の裏にかくされているものは、当事者たち以外は知る由もない。

 ともかくもIOCが第1回から続いたレスリングという競技の除外を決めた背景が、ロビー活動や金銭だとしたら、オリンピックとは参加することも懐疑的な大会に成り下がってしまった、といっても過言ではないだろう。


愛情

2013 年 1 月 31 日

 悲しいことだが、体罰によるニュースが跡を絶たない。

 その指導者への非難は永遠につづくように思われるが、世論から忘れ去られ“次の悲劇”を生む。世論は「体罰などもってのほか」といった風潮を生み、そして忘れ去られた頃に次の悲劇が生まれる。

 “スポ根ドラマ”の草分け的存在の「スクール☆ウォーズ」では、山下真司氏が演じる情熱感あふれる監督、滝沢賢治の『今からお前たちを殴る』という代表的な場面がある。このドラマは、京都府にある伏見工業高等学校ラグビー部をモデルにしているのは周知の事実であり、監督もまた滝沢に勝るとも劣らない山口良治監督をモデルにしている。

 極端な例ではあるが、言いかえればこれも指導という名の体罰であることを忘れてはならない。

 ではなぜ、伏見工業が教育界でも伝説といわれ、後世まで語り草になるのか。キッカケは、無名の高校が前年度全国準優勝校に112対0で惨敗したことから始まる。あまりの悔しさから不良生徒たちが泣き崩れ、強くなりたいと誓い、その時に『今からお前たちを殴る』が生まれた。

 生徒たちは奮起し、全国制覇をめざすこととなるのがこのワンシーンであり、伏見工業とドラマ、両者にとっての分岐点になってゆくのである。実際、山口氏も『あの日のかれらの泣き声が伏見工業ラグビー部誕生の産声だった』と自伝(信は力なり 旬報社)でもふり返っている。

 スポーツの名門校である鹿児島実業高等学校のサッカー部総監督であられる松澤隆司氏は『理不尽は人を成長させる』という。

 その理不尽こそが、日本代表選手を何人も輩出している背景なのだと言いかえることはできないだろうか。そのことを暴力に代表される「体罰」なのだと限定するつもりは毛頭ない。だが、そうした理不尽こそが心身ともに屈強な選手を育てあげた小さな証でもある。

 ただ言えることは一方通行の体罰による心の傷は癒えないし、むろん自殺者はかえっては来ない。

 たとえ理不尽があっても、体罰があったとしても、受ける側がいかに受けとるか、ということに尽きる。いつの時代も体罰はあった。幸か不幸かそれを美徳とするのも日本人の特徴でもあり、大切なのは競技者と指導者、教える側と教えられる側が理解しあう心の繋がりなのではないか。

 山口監督の伏見工業赴任当時、校舎のガラスは割られ、校内をバイクが走り回る殺伐とした環境だったという。そんな鼻つまみたちを見捨てなかったのも監督であり、『自分の子供にも同じ態度で接するのか』ということを教員全員に語りかけたエピソードもある。

 そういう熱意と愛情こそが、112対0で敗れた相手を1年後の決勝戦では18対12で倒し、わずか1年で京都一になった源泉なのではないか。