‘baseball’

歩調

2013 年 8 月 23 日

 ニューヨーク・ヤンキースに所属するイチローが日米通算4000本安打を達成したその日、第95回全国高等学校野球選手権大会決勝戦が行われ、群馬県代表の前橋育英高校が同大会初出場ながら初優勝で幕を下ろした。

 どちらも偉業には変わりはないが4191本のタイ・カッブ、4256本のピート・ローズの偉人がイチローの上にはいる。金字塔を立ててはいるものの、両者とも暗い過去をもつだけに史上最年少で4000本に到達したイチローに塗りかえて欲しい、と望む野球ファンは少なくない。

 前橋育英はおとぎ話のような奇跡をやってのけた。

 初出場での初優勝は73回大会の大阪府代表・大阪桐蔭高校以来となる。188cmの大型2年生投手・高橋光成の好投が光るなか、破綻しない守備に支えられたチームは、効果的な打線で日本一に輝いた。

 チームを率いた荒井直樹監督と主将で4番、三塁手を任されていた荒井海斗の「親子鷹」の活躍もあり、偉業に花をそえた。3年生の息子にとって最後の夏、高校球児たちにとって43,000人を超えるファンに見つめられる夢の舞台に立ち、父親の悲願をも叶えた。

 初出場での初優勝の原動力は、たしかな実力と“勢い”がなければ成り立たないのは明白だろう。大会5日目の岩国商業に勝利すると、前橋育英には9者連続奪三振を記録した投手がいる、という印象を世の中に与えた。

 岩国商業は今大会優勝校に甲子園で最初にやぶれた高校だが、試合後に目を惹(ひ)く光景があった。

 甲子園は試合後、地元から応援に駆けつけてくれた方々の待つアルプススタンドに全速力で向かい、挨拶するのが甲子園の習わしでもある。笑って向かうか、泣いて向かうか、は試合結果で変わってくるが、移動という移動は走っておこなうのが甲子園の常識であり、習わしでもある。

 しかし、この山口県代表は歩いてアルプススタンドに向かった。

 記録員としてベンチに入っていた吉本光佑のために彼らは歩いた。病気の影響で不自由になった両膝をもった選手だとしてもチームは彼に背番号18を背負わせた。走れなくとも“戦力”として吉本を選んだことは功を奏し、チームは27年ぶりに甲子園の土を踏んだのだ。

 チームメイトも『光佑のために・・』と口にし、吉本も『自分の歩調に合わせてくれて・・』と口にしている。

 優勝投手となった高橋をはじめ、今大会はおおくの2年生が活躍し注目を集め、はやくも来年の甲子園に熱を帯びる。しかし、彼らに来年の甲子園は約束されていないのも現実だ。

 だが、およそ20年前に愛工大名電(愛知県)の選手として甲子園を経験したイチローは、『4000安打を打つには、8000回以上の悔しい思いをしてきた』と偉業をふり返っている。
 悔しい思いをした選手たちの1年後が待ち遠しい。


拍車

2013 年 5 月 21 日

 1990年代以前、プロ野球チームを持たない都道府県民にとって、民放(民間放送)でテレビ中継されるほとんどの試合は巨人戦だった。47の都道府県の中に12球団あるが、巨人戦をまったく放送しなかった話は聞いたことがあるだろうか。

 なぜ、巨人は“巨人”になったのか。

 長嶋茂雄氏、王貞治氏、松井秀喜氏といった新旧のスター選手の存在が助けたとしても読売新聞社という親会社が多大な貢献をしたのは周知の事実である。莫大な資金とテレビを通してファンを増やしていったのは言うまでもない。

 日本サッカー協会最高顧問、川淵三郎氏が5月15日、国立競技場で「Jリーグ20周年記念式典」の席で挨拶を行った。1993年の同じ日、同じ場所で開幕の挨拶をした川淵氏の黒髪も20年が経ちすっかり白さが目立っていた。

 この日、試合を主催したFC東京は20年前の開幕チケットを持参したファン約60人を無料で招待する。リーグ戦ではなくナビスコカップの予選ということもあり、当時と比べれば空席は目立ったが裏をかえせば、平日開催のカップ戦でも12,000人が詰めかけるリーグになったことを実感できる。

 10チームでスタートしたリーグは20年後の現在、2部制にもなりJ1に18チーム、J2に22チームが所属し、来季にはJ3開幕が予定されている。アジア王者になること3回、W杯の常連国にもなり、アジアの強豪としてすっかり認知される「日本」になった。

 また、第3回WBC日本代表が発表されると田中将大選手(東北楽天イーグルス)は『代表といえばサッカーですが・・』というコメントを残すほど「日本代表」の代名詞にもなった。

 川淵氏の挨拶のなかで「W杯制覇、Jリーグ百年構想」の目標をかかげ、『(発展のために)叱咤激励してください』と語った。

 日本は強くなった。Jリーグ発足20年でとてつもなく強くなった。それと平行するように莫大な資金をもつ企業にもなった。J3が誕生すれば、日本サッカー協会はおよそ50チームをこえ都道府県数を上回る。特筆すべきは、これまでJリーグの各チームが試行錯誤をかさね地域に密着し、ファンを徐々に増やしてきたことだ。

 協会にとって最大の広告塔は「代表チーム」だが、更なる発展のためにはJリーグの民放を増やすことこそ更なる発展にはならないだろうか。現在、ファンは有料チャンネルを契約しテレビを通してチームを見守るのが現状だ。

 ただ、民放で放送するには資金がいる。だがその資金を協会はもっているのもまた事実である。協会からの補助金を出すことは可能なのではないか。スポーツに関わらず、テレビに映る人物を“生”で見たいのは人の心理でもある。

 テレビに映し出されるスターが、もし地元出身者ならば拍車がかかるのではないか。


雪辱

2013 年 3 月 19 日

 借りは返せるものである。

 WBC(ワールドベースボールクラシック)準決勝が17日、アメリカ・サンフランシスコで行われ、日本代表はプエルトリコ代表に1対3で敗れ、大会3連覇の夢はたたれた。

 自滅、判断ミス、ともいわれる敗戦だが、助っ人外国人としてメジャーリーグ自体を牽引する、といっても過言ではない選手がいる相手に見方によっては、善戦した、という識者も多い。

 それでも勝てない相手でなかったのは、明白でもある。では、なぜ負けたか、ということは人によって異なるが、その違いこそスポーツの楽しさの一つでもあることを忘れてはならない。

 勝敗を分けた、といわれるWBC準決勝8回裏のシーン。日本の攻撃で2塁に走った選手が悪いのか、3塁に走らなかった選手が悪いのか、ダブルスチールのサインを出した監督が悪いのか、それとも打てなかった4番バッターが悪いのか。はたして、この中だけに答えはあるのか。

 前途は、簡単にそのシーンにいた4人を挙げてはみた。が、このなかで戦犯を探すことよりも、9回をとおしてなぜ勝てなかったのか、を探すことのほうが建設的であり、将来は明るい。

 サッカーW杯決勝戦でPKを外した選手がいた。5人中3人が外したそのPK戦で、その選手は5人目に外し、落ちこむ姿すら画になった選手だった。だが、この選手は4年後のW杯のグループリーグ初戦でPKを成功させている。

 そういった悔しさを挽回できる機会はきっと訪れる。WBCは今回で3回目の新しい大会であり、日本しか優勝したことのない大会でもある。日本にとって、王座奪還という立場で大会にいどむのもWBCの歴史をつくっていく上で大切で、欠かせないものになっていくはずだ。

 サッカー日本代表は、3月22日に強化試合カナダ戦を行い、同26日にはアジア最終予選ヨルダン戦を行う。26日に勝利すると2014年ブラジルW杯出場が決まる。相手は格下と目されるがアウェイ戦であり、予断はゆるされない状況にある。

 その状況にありながら、本田圭佑(CSKAモスクワ)、長友佑都(インテルミラノ)という大黒柱の2本を怪我により欠場する。それでも好調のときにある香川真司(マンチェスターユナイテッド)清武弘嗣(ニュルンベルク)といった選手たちの奮起に期待がかかる。

 前回W杯の南アフリカ大会ベスト16で、PKを失敗した選手がいた。練習では一度も外したことがなかった選手が本番で失敗したのだった。その選手は現在、ベンチを温める日がつづくが常連メンバーの1人である。

 南アフリカでの出来事をファンは覚えている。美しくか、醜くか、は人によって異なるが、ブラジルでもし、そんな場面が訪れたとき、さまざまな感情があふれ出るのもスポーツの楽しさといえる。


松井秀喜

2012 年 12 月 30 日

 たとえサッカーに興味がなくとも、ディエゴ・マラドーナという選手は誰もが知っているはずだろう。そういう選手とチームメイトになった場合、それは夢のような思い出になるはずだ。

 のちに歴史に名をのこす選手となるジャンフランコ・ゾラはその典型例だろう。マラドーナが選手としてピークを迎えていたセリエA・ナポリ時代、ゾラは夢のような時間を体験する。

 『初めてマラドーナとボールを蹴りあったとき、極自然に笑みがこぼれてきた。あの時のうれしさ、感動と興奮をぼくはずっと持ちつづけてプレーしてきた』と、選手時代の晩年にコメントしている。

 「あの時があったから」というのは、誰にとっても大事な経験なのは言うまでもない。

 高校野球児にとって夢の舞台である甲子園という舞台で、5打席連続敬遠という稀有(けう)な経験した松井秀喜はプロの世界にとびこみ、日本球界を代表するホームランバッターになってゆく。

 プロ生活7年目のある日、5打席連続敬遠したピッチャーと対談するテレビ番組が企画された。その対談を前に、『あの当時の松井秀喜は5回敬遠するほど価値のあるバッターではなかった』と謙遜し、『かりに勝負したとしても打てたかどうか分からない』とも言った。
 『ただ、そのことにより伝説のバッターになってしまった』と笑いながら話すあたりが日本人に限らず、人に愛される松井秀喜なのだろう。

 長嶋茂雄氏とのあいだには奇妙な“縁”がある。

 同氏が引退した1974年に松井は生まれ、最初に監督を解任された1980年に野球をはじめている。ふたたび監督として戻ったその年にドラフトでくじを引き当てている。

 ドラフト前に『自分を望んでくれた球団が、僕の希望球団です』と語っていた青年は、自分を望んでくれた球団でおおくを背負い、希望球団を日本一にもした。また、自身があこがれた世界一有名なチームに移籍し、そのチームを世界一にもした。

 長嶋茂雄という不出世の天才と過ごした若い才能は、大きく開花し、アメリカ人をふくめたおおくの人から、人間として、選手として賞賛をあつめるまでになった。そういう松井秀喜という選手が2012年をもって現役引退を表明した。

 巨人時代に築いていた連続試合記録を伸ばし続ける理由を『巨人戦のチケットはなかなか取れないんです。もし、仮にその試合に地方から僕を見に来ているファンがいたら、って思ったら少しくらい痛くても僕は試合に出ます』と、ファンを大事にする選手だった。

 引退会見のとき『一番の思い出は?』という問いに、優勝した時ではなく、代名詞のホームランでもなく、目に光るものを滲(にじ)ませながら『2人で素振りをした時間ですね』と答えたのは必然だったのかもしれない。


反映

2012 年 11 月 6 日

 ファンは、スポーツの喜怒哀楽をよく知っている。

 人によっては場面や出来事をこと細かにおぼえており、嬉しかったこと、悔しかったこと、そういった感情の起伏こそファンをよりいっそうの虜(とりこ)にする。ファンからみた場合、前者は快楽に浸り、後者は恨みすら覚えるものだ。

 11月1日、札幌ドームで行われたプロ野球・日本シリーズは、2勝2敗の五分でむかえた第5戦で「世紀の大誤審」とよばれる出来事があった。

 四回、無死一塁で日本ハム・多田野数人投手がバントの構えをした巨人・加藤健選手の頭部ちかくに140キロ近いストレートを投じ、加藤選手は避けようと後方に倒れ込んだ。

 中継映像、リプレー映像を見る限りは頭部死球ではないようにも見えたが、審判は危険球とし退場を宣告した。日本ハム・栗山英樹監督の猛抗議も実らず、判定は変わることはなかった。

 疑惑の場面について栗山監督は『バントにいっていたのでストライク、空振りでしょ』と主張する一方、苦痛に顔をゆがめて倒れ込んだ加藤選手、心配した表情でベンチを飛び出してきた巨人・原辰徳監督。そうした行為も審判の心を揺れ動かすのに十分すぎるものだったに違いない。

 日本ハムの選手たちは『ヘルメットに当たった音じゃなかった』、『審判は最初、ファウルと言っていたが原監督が出てきてから判定が変わった』と言い、危険球退場となった多田野投手は『だます方もだます方。だまされる方もだまされる方』と吐き捨てた。

 五回、だましたとされる加藤選手が打席に立つと大ブーイングを受けるなか、2点を追加するヒットを放つ“結果”を残したことも忘れてはならない。

 九回にも2失点を追加された試合は2-10というスコアで終える。この結果により巨人が3勝2敗で王手をかけ、6戦目も4-3で勝利した巨人は4勝2敗で日本シリーズを制し、3年ぶり22度目の日本一となった。

 野球には興味がなく、日本シリーズをニュースでしか見なかった者からすれば、誤審は事件のように扱われ、それによって日本ハムは敗れた、と映る。また、両者のファンではなく“野球ファン”から見た場合、誤審があってもなくても巨人が勝っていた、とも映る。

 だが、ファンから見た場合、結果は喜びか悲しみでしかない。残酷な言い方を許してもらえるなら、喜んだ側は誤審そのものを忘れるが、悲しんだ側は日本一になるまで忘れないだろう。

 一方で、誤審もスポーツの一部だという者もいる。

 試合を行えば勝者と敗者という残酷な結果を作り、人間が裁く以上、誤審は起こってしまうものだ。くだされた裁きに憎しみを覚える者の気持ちは分からないでもない。
 だが、その先にあるチームの勝利に笑えるのもファンの特権でもある。